一昨日の夜、コンサートから家に戻ってきてNHK World-Japanの速報で火事のことを知りました。信じがたい悲しい出来事でした。
僕が首里で育っていた頃は、首里城は城址の面影なんてまったく無い、父の勤め先の琉球大学がある場所でした。母が子供の頃よく遊んだという正殿は実家から数百メートルの場所にあるはずの建物なのに写真か博物館の模型でしか見ることのできない、自分にとっては戦争で失われたもの象徴であり、行ってみたかったという憧れでもありました。それだけに首里城が復元されたというニュースは海外で生活している自分にとっても、とても誇らしく嬉しいことでした。
首里城の丘のふもとに今もある僕が通っていた小学校では、1972年に祖国復帰するまで『…君たちは日本人なのだから、休日には必ず日本の国旗をあげるように…』(注)と教わり、時折、教室で『君が代』を歌っていたということが自分のアイデンティティー形成に大きな影響を及ぼしたと思っています。今考えると、ある意味で当時の琉球大学は琉球列島米国民政府(USCAR)が建てた米軍統治時代の象徴、第二次世界大戦で失われた首里城は明治維新後大日本帝国に統合された琉球王国の歴史の象徴、そして復元された首里城は民主化された日本国が建てた沖縄祖国復帰の象徴であったと思います。
物心ついた頃から、首里城は沖縄のおじいちゃんとおばあちゃんの家の屋上から見えるものだと思って育った娘たちにとっては自分以上にショックだったようです。
新聞の記事(こちら)によると、首里城にはスプリンクラーが設置されていなかったとのこと。どのような理由で設置されなかったかは知りませんが、『もし設置されていたのであれば』と、悔しい気持ちでいっぱいです。
別の記事(こちら)では、1500点以上の絵画、漆器、史料などの収蔵品うち400点以上が焼失、残りの品も確認できない状態であるということ。完全に永久に失われた琉球王国の文化の遺産に気持ちのやり場がありません。
(注)米軍統治下時代の沖縄では公休日のみ日本国旗の掲揚が許されていたということをだいぶ後で知りました。
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